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パンダ選任大使に聞く、パンダ誘致活動の舞台裏!

もし、来日が1ヶ月遅れていたら、看板娘シャンシャンとの出会いはなかったかもしれない――。パンダ選任大使、二木忠雄氏が語る、誘致活動の裏側と「市民の力」の結晶を紐解きます。

編集長
2008年に上野動物園のリンリンが亡くなった時、上野の街は大きな衝撃を受けましたね。

二木氏
そうですね。まるで街の灯が消えたようでした。商店街も観光客も元気をなくしてしまい、このままでは上野が沈んでしまう、と強く感じました。そこで私は「何としても再びパンダを上野へ」と誘致活動を決意しました。

編集長
その活動は一筋縄ではいかなかったと伺っています。

二木氏
ええ。当時の石原慎太郎都知事が難関でした。パンダ誘致には全く乗り気ではなく、東京都の支出にも消極的でした。正直、かなりの逆風でしたよ。

編集長
その中でどのように動かれたのですか。

二木氏
あの手この手で世論を盛り上げました。子供たちにパンダの絵を描いてもらい、石原知事に直訴したり、パンダ誘致を願って「上野夏祭りパレード」を開催しました。お祝いムードに包んで、上野の人々がどれだけパンダを愛し望んでいるかをアピールしました。

編集長
まさに知恵と情熱の誘致活動!

二木氏
ええ。決して楽な道のりではありませんでしたが、上野の街を元気にしたい、その一心でした。あの時の活動が実を結び、今のシャンシャン、シャオシャオ、レイレイへとつながっているのです。

編集長
そしてついに、中国からパンダがやってきました。

二木氏
はい。やってきたのはリーリーとシンシン。美男美女のパンダでした。私はこれも中国側の大きな配慮だったと思っています。そして、その背後には日本政府と東京都、そして何よりパンダファンの皆さんの熱意があった。まさに「日中友好」と「市民の力」の結晶でしたね。

編集長
実際の来日は2011年だったと記憶しています。

二木氏
本来は2011年3月中旬に来日が決まっていました。ところが、私は直感も働き、お花見や検疫、パンダ舎改築等を理由に1ヶ月前の前倒しを希望したところ2月21日に来日が実現できました。その1ヶ月後の3月11日に信じ難いのですが、東日本大震災が発生しました。もしあの時前倒しできていなければ、パンダの来日はなかったかもしれません。となると、上野で生まれた看板娘シャンシャンとの出会いはなかったかもしれません。私は今でもあの時の「気づき」は運命だったと思っています。

編集長
来年2月で再びパンダは中国に返還されます。最後のメッセージをお願いします。

二木氏
パンダはただの観光資源ではなく、人と人をつなぎ、街を元気にする存在です。上野の人々、そして日本中の人々がこれからもパンダを大切に思い続けることが、次の時代の誘致にも必ず繋がるはずです。

二木 忠雄さんプロフィール

日本パンダ保護協会 評議員。大学卒業後、大阪の菓子問屋で修業、78年株式会社二木(二木の菓子)入社。二木ゴルフ、東洋茶廊などの社員、役員を経て、現在は二木グループ代表役員。上野駅周辺全地区整備推進協議会会長、東京都警察官友の会・第六方面委員長など公職も多い。