1. HOME
  2. 言問のあれこれ
  3. 言問のあれこれ
  4. 有形文化財『花重』の150年の歴史とこれからVol.1

有形文化財『花重』の150年の歴史とこれからVol.1

明治7年、谷中墓地の開設と同時期に開業した生花問屋「花重」。歴史ある老舗の生花店という印象ですが、戦後にはいち早く洋花を取り入れ、フラワーアレジメントの文化を日本へ導入した生花問屋でした。
渋沢栄一も通った花重の歴史とこれからについて、たいとう歴史都市研究会(たい歴)にお話を伺いました。

茶屋町と花重

明治7年に谷中墓地が開設される以前、この場所は感応寺の広大な境内でした。境内の最南に位置する表門の門前に、元禄16年に茶屋町を開設したことが始まりと言われています。この頃感応寺では富くじが行われ、「江戸の三富」として大いにお客さんを呼んだようです。このお客さんを当て込んで参道入り口である現在の花重周辺に茶屋がたちならび、その名残から、現在でもこのあたりの墓守を主とした花屋のことをお茶屋と呼んでいます。

花重は、初代・関江重三郎が明治3年に生花問屋として開業したのが始まりです。初代は現在の足立区西新井の出身で天保12年生まれ。21歳で谷中初音町にあった花問屋「花長」の養子となります。そこで9年間働いたのち、現在の花重で独立しました。江戸末期、初代が大八車に野菜と花を乗せて、現在の花重あたりに来て並べると、天王寺の墓地があったため花のほうがよく売れたようで、それで谷中墓地の開設より早く、旧天王寺門前にお店を始めたと伝わっています。

初代重三郎の伝記額
町名が「谷中茶屋町」だった名残の木札

当初は国井長兵衛という名で屋号も「花長」でしたが、のちに関江の姓を得て、名も重三郎と名乗り「花重」となりました。当時東京では、西新井周辺と堀切周辺が花所とされていました。最初は市場がなく千住の河川敷に野市が立ち、そこで原始的な物々交換が行われました。
その後、谷中周辺に剪花問屋が7つできました。花重はそのうちの1つでしたが、当時は墓花の販売が主要でした。初代は明治26年に52歳で亡くなりますが、その前後に2代目孝次・ハツ夫妻を養子に迎え入れます。


江戸名所図解 出典:江戸図解名所 「谷中感応寺 其一」

大正8年には3代目・関江重三郎が誕生しました。関東大震災後には「競り」取引による花市場が千住や銀座に出現し、花の流通革命が始まります。戦後、昭和22年に3代目が復員し、28歳で花重を復活させました。当時は上野精養軒の結婚式や文化会館のコンサート用に花を収めるなど、事業の規模拡大をしていました。昭和30年代には敷地の奥に社員寮も建て、番頭さんをはじめ従業員が20名以上いたようです。そうした中、昭和40年代にはいると、3代目はアメリカの視察を皮切りに、海外の植物や花屋を見て回り、よいと感じたものはどんどん取り入れ、上野に「東京フラワーデザインセンター」を開設し、事業が隆盛を極める中、フロリストの養成学校も開設して多くの門下生を輩出しました。そして国家資格「フラワー装飾技能士」の設置にも協力して、技能者の育成にも尽くしました。

有形文化財『花重』のこれから

現在の花重は4代目が引き継ぎ、2020年には創業150年を迎えました。4代目は3代目が最期に「明治期の建物を残し、花重の伝承花やじかもりをあなたのやり方でいいから、その技術を伝えなさい」と約束したことを胸に刻み、日々奮闘しています。

error: Content is protected !!